2006/6/2

今週の行ってきましたVol.122
 
回は7ヶ月ぶりに新潟県中越震災の被災地、小千谷市(おぢやし)に行ってきました。
車でちょうど600Km、約8時間。いままで一人が多かったのですが、今回はラジコン飛行機仲間で災害ボランティアの経験もあるYさんも一緒です。
 
朝早くから、現地の仮設住宅に住んでいるHくんに案内してもらって、今まで行っていない山間部の東山地区(山くずれなどで大きな被害をうけたところ)を見せてもらいました。この地区はいちばん遅いところで今年4月まで避難勧告が出されていました。(地震発生から1年半)
 
市街地はほとんど道路も舗装がやり直されていて復旧もかなりしているように見受けられますが、山間部はまだまだ道路はひび割れたり崩れていたりで工事現場だらけです。
家は修理できないものはすでに解体されて、崩れたままの家は少しになっています。
でもよく見ると土台だけになった更地があちこちにあり集落に帰れない現状を認識させます。そんな中で伝統のある闘牛場http://www.geocities.jp/ojiyatougyu_hokutokai/は昨日修理完工したとかで真新しいコンクリートの観客席ができていました。
 
がけ崩れのところも修理に取り掛かっているところもありますが、大半は手をつけるところまでたどり着いていないようです。震災前は緑豊かで静かな山里だったと思いますが、今は工事機械やダンプカーの砂埃と騒音、そして崩れた山肌、補修のためのコンクリートが気持ちを複雑にさせます。早く直さないと安心して住めないし、かといって景色がコンクリートだらけになったり、騒音などで落ち着かないだろうし。
 
H君の住んでいる集落もすぐ隣の家が解体してなくなっていました。
 
それから絆Tシャツの売り上げで作っている塩谷集落の芒種庵にも行くと、中心になってやっておられるT.Hさん夫妻とお話ができました。
http://soiga.com/mati/shiodani.php?blogid=10
T.Hさんも自宅を解体撤去し、ビニールハウスの養鯉小屋だけが残ったようなことで、市街地の仮設住宅から通っておられます。
芒種庵は床を張る準備というところで、暖かそうな囲炉裏も作られていました。まだもうすこし資金が要るようです。
http://soiga.com/mati/shiodani.php?blogid=10&archive=2005-11-09
 
その後はH君たちが作ったタイムカプセルを見せてもらったり、いろいろと活動されている種屋の朋子さんに会ったり。
 
昼前からは、震災後からずっと日本酒を共同購入している高の井酒造の雪中祭に参加。
いいお天気の中、庭園で雪の中から掘り出したばかりのおいしい日本酒をたくさんよばれました。
http://www.hatsuume.co.jp/
そこでは去年の雪中祭で出会った方とも再会。
また小千谷のジャスコで働いておられる方とも同席していたのでお話を伺うと、震災後に高の井酒造の瓦礫片付け中に初代清酒のラベルが偶然発見されて、それをイオングループの本部に送ったところ、支援をしようってことで、ラベルを復刻させ、それを貼った高の井酒造の日本酒を全国のイオングループで販売しているそうです。今度うちの近くのサティで探してみようっと。
 
いっぽう高の井酒造の酒蔵はやっとすべて修理ができたそうです。仮設住宅に住みながら働いておられる従業員の方もおられました。
また隣接する味噌醤油工場http://www.echigojishi.co.jp/は全壊していましたが、味噌工場だけは新しく立て直すことができ、今年生産できた味噌も振舞われて、おいしくいただきました。
でも醤油工場の方はまだ解体作業中で、生産に至るまではもう少し時間がかかりそうです。従業員の方たちは臨時の場所で頑張っておられるようです。
 
雪中祭が終わってからは持ち帰って売るためのそばを仕入れに総合産業会館へ、
 
また夜には、小千谷市役所勤めの方とも久しぶりに出会って一杯。
 
インターネットブログ「小千谷から」の発信者の方とも会って語りました。
http://blog.goo.ne.jp/dorachan
 
あくる日、帰る前に小千谷市民の憩いの場所となっている山本山に行きました。ちょうど去年の今頃も連れて行ってもらったのですが、そのときは道路も一箇所からしか行けず、それも亀裂の入ったままの崖上の道でヒヤヒヤものでした。今回はすでに二つのルートが途中までですがきれいになって開通し中腹にある菜の花畑を見ることができました。菜の花の暖かく揺れる様子をみていると、これからの被災地の人たちの幸せに揺れる笑顔がやってくればいいなあって思いが浮かんでいました。
でも菜の花から少し視線を横に向けると、山上から見えるところには数え切れないがけ崩れや地すべり、山崩れの赤い地肌が見えています。みんなつらいだろうなあ。
あちこちの写真を撮ろうと思ってポケットに小さなカメラをもって行ったのですが、多くの被災の様子にはカメラを出すことができませんでした。震災直後に行ったときにも避難所とかでカメラを出せなかったのと同じ。伝えることのためには写真が必要だとおもっていても出せないのはなぜ。そのためにポケットに入れて持っていったんだけど・・・
冒頭で市街地はほとんど道路も舗装がやり直されていて復旧もかなりしているように見受けられます」と書きましたが、これはさらっと外から見たら被災地はどこでもこういう風に見えるんですよね。
 
いま、遠くから神戸に来た人たちも阪神淡路大震災のコトをそう思うでしょう。
 
小千谷の人々とだんだんとたくさん知り合って、話しをするようになって、みんな元気になろうとして、また元気でそういう風に見える人もいます。でも、表情やふと沈黙したときに、言葉には出しにくい「つらさ」といったものをを感じます。
家の中は壁なども割れたり、柱も傾いたそのままで暮らしていたり、田んぼや池も湧き水が出なくなってカラのところがあったり。家も解体されて被害が見えなくなってしまっただけで、よく見るとそこには土台だけの空き地がたくさんあったり、立ち直れた人とそうでない人と気持ちの通じないギャップが出てきていたり。
注意して見ないと、わからない。世の中のTVでは伝わらない。そんなこと多いなあー